花ざかりの山手から買い物天国、横浜橋通商店街
私の散歩は「港の見える丘公園」から始まる。バラの季節には、公園は地上の楽園と化す。空気が甘く香っている。咲き乱れたバラの足元に、アヤメが白と紫を滴らせていたり、ジキタリス・プルプレアの長く伸びた花(か)茎(けい)に袋状の花が鈴なりになっていたりする。
以前からバラ園はあったが、10年ほど前から「イングリッシュローズの庭」に変身して、バラの密度が一挙に上がった。同時に他の草花との競演を楽しめるようになった。

ここの庭園は沈床式(ちんしょうしき)という様式で、中央の長方形の空間が数段下がったところにある。降りて行くと、秘密の花園に迷い込んだ気分になる。バラのアーチに取り巻かれた噴水が水を上下させているのを飽きず眺める。
公園からは山手本通りを道なりに行く。程なく右手に外国人墓地が見えてくる。さまざまな意匠の墓石が静かな時を刻んでいる。高台ゆえ、ランドマークタワーや、晴れると富士山が望めることもある。墓地はやがて元町公園の緑に飲み込まれる。左手には横浜山手聖公会の重厚な四角い塔がそびえる。界隈には4軒の洋館が訪(おとな)う人を待っている。

他にも喫茶店となった「えの木てい」もあって、若い人の列ができている。
この辺りからカトリック山手教会にかけては、山手らしい落ち着いた空気が流れている。観光客の足はこのへんで止まるが、私の散歩はこれからが本番だ。しばらく道なりの後、右手に折れ、打越橋を渡ってくねくね道に沿って行く。相変わらず高台だが、生活感のある住宅街になっている。
この「蛇坂」には、大きな目印がある。白亜のマンションが何棟も並んでいるのだが、崖に半分突き出した作りになっている。これを左手に見ながら険しい石段を降りると、とたんに庶民的な界隈となる。

高速道路を潜って橋を渡れば、三吉演芸場がある。大衆演劇の常設小屋で、芝居とショーが楽しめる。公演が終わった後は、役者たちが入り口に整列して客を見送る。派手な着物姿の白塗りが、商店街の景色に浮いて見えるのも、独特の哀感がある。
三吉橋通り商店街は店の入れ替わりが進んでいるなか、研屋(とぎや)の「山惣商店三代目」は健在だ。創業時は本店が伊勢佐木町で、こちらは支店だった。昭和36年生まれの山本洋一さんは支店の2階で産声を上げたそうだ。伊勢佐木町が衰退し、こちらが本拠となり、2009年からは研ぎに特化している。
「儲けはないが、やり甲斐がある」とのこと。研ぎ終わった包丁を新聞紙に当てるなり、紙は2枚に分かれた。さすがの名人仕事である。

名人は有名な観光地などでは、「でたらめな商品」を高い値段で売っていることを嘆いている。「作り手半分、使い手半分」と言うそうで、ちゃんとした商品を買うことも大事だが、その後のケアも大切だ。聞いている私は耳が痛い。刃が駄目になった上に、柄がふたつに割れたものを騙し騙し使っているのだ。柄も替えてもらえると知って、こちらに持参することにした。
職人気質の山本さんには信頼が置ける。これから歩く横浜橋通商店街でお気に入りのお店を教えてもらった。魚なら「魚範(うおはん)」が安心して買える。蕎麦なら「いろは」か「安楽」。肉は横浜橋市場の「白井肉店」で、牛レバの鮮度が良い。伺っていると、山本さんの充実した晩酌が察せられた。

三吉橋通りを抜けて道路を渡った先は、全長約350メートルのアーケード街。その長さと規模で、遠近感が普通の2倍に感じられる。横浜橋通商店街に手ぶらで来た私は、どうかしている。港の見える丘公園が本物の花園なら、こちらは商品の花園なのだ。幸い、商店街には百均も揃っている。まずは200円で巨大なビニールバッグをゲットした。

通りから右に伸びる路地が横浜橋市場。キムチ屋と居酒屋に挟まれたのが「バラエティーミート」の「白井肉店」だった。店内に入るなり強烈な冷房に驚いた。お肉を劣化させないための配慮である。「バラエティー」と自称するだけあって、肉のあらゆる部位が揃っている。豚足やモミジ(鶏の足)が大袋に入っている。牛ホホ、豚生直腸、ハチノス。生レバやカルビなどの焼肉用はショーケースの中だ。普通の肉も豚の切り落としが100グラム98円と、破格の安さ。まとめ買いの客が多い、というのも頷(うなず)ける。

仕入れは厚木食肉センターで、白井利吉さんによると、「日本中の肉が集まっている」そうだ。この店も、ほとんどが国産物を扱う。私はハラミと自家製焼肉のタレを購入した。しかし本当のところはハチノスが気になって仕方がない。食べ方を教えてもらった。2時間ボイルする、という手間をかければ、そのまま酢味噌でいただいても、焼肉や炒め物にもなる。イタリア料理のトリッパもこれで作る。次回はチャレンジ、と心に決めた。
蕎麦の「いろは」では天ぷらのテイクアウトをやっていた。ハモと山菜のコシアブラ、それぞれ500円をお願いした。他に客がいないのを幸い、話しかけた。

「ご兄弟で誠実な仕事をしている、と研屋さんが言っていました」
お兄さんの金森孝治さんは照れている。お兄さんはフロアと蕎麦とうどんの担当。弟の保治さんは海鮮と天ぷら。店の壁に目が慣れてくると、お品書きが異様に多いことに気がついた。おすすめは天ぷら蕎麦だが、その天ぷらの種類がとても多い。「ギンポ」は穴子のように長い魚、と言われれば納得する。中には「オオグソクムシのからあげ」600円などというのもあって、「海底にいる大きなダンゴムシ」と言われても想像がつかない。名物は「ウニいくら丼」で、TikTokで動画が100万回以上再生されたそうである。次回はオオグソクムシを肴に蕎麦屋酒を楽しむことにする。

その後は定番の店を回った。「魚範」はカツオの刺身にした。
キムチの「福美」では季節物の島らっきょうと浅漬けのサラダ風。鰻の「八舟(はっしゅう)」はアーケード街の屋根が木造だった頃からの老舗で、本物が安い。


通りで法被(はっぴ)を着た中学生4人組に声をかけられた。北海道の物産を売り歩いている。〆ニシン400円を買って話を聞いた。石狩市立厚田学園の、彼らは9年生である。小中一貫の義務教育学校なのでそういう数え方になる。9年間の一貫カリキュラムで厚田の魅力を知り、それを道外で発信することになっている。そこで修学旅行の折に、横浜橋通商店街で「発信」しているわけだ。学校の近くの道の駅で、自分たちで仕入れをした商品を、自分たちで売る。

「暗算力が身につきました」
「売れたら嬉しいです」
付き添いの先生によると、横浜市観光協会のホームページで商店街が外部から物販を呼んでいると知り、参加して今年で4年目になる。これから中華街、という生徒さんたちの目は輝いていた。

百均で買った袋が3分の1ほど埋まっているが、持てない重さではない。夕暮れに誘われて、タクシーで野毛に足を伸ばした。野毛の飲み屋街は最近では洒落たワインバーが増えて、若い人で溢れている。私が行くのは老舗の立ち飲みだ。串揚げに「辛いソース」を頼むと、一味違った大人の味になる。ニンニクの丸揚げは相手がいれば匂いの問題があるが、幸い今日は一人だ。頬張って生ビールで流し込む。串を一通り楽しんだ後は、あっさりとお新香。2杯目でサワーにして、3杯目の頃は頭の中で公園のバラとキムチがダンスを踊っている。長かった散歩は、野毛の夕闇に包まれて終わった。
【基本情報】
・港の見える丘公園
住所:中区山手町114
URL:https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen007.html
・三吉橋通り商店街
住所:横浜市南区浦舟町1-3
URL:https://miyoshibashidori-shoutengai.jimdofree.com
・横浜橋通商店街
住所:横浜市南区高根町1-4

ライター:荻野アンナ
1956年横浜市生まれ。慶応義塾大学文学部卒。83年より3年間、ソルボンヌ大学に留学、ラブレー研究で博士号取得。89年慶應義塾大学大学院博士課程修了。以後2022年まで同大で教鞭をとり、現在名誉教授。1991年「背負い水」で第105回芥川賞、2002年『ホラ吹きアンリの冒険』で第53回読売文学賞、08年『蟹と彼と私』で第19回伊藤整文学賞を受賞。そのほかの著書に『カシス川』『老婦人マリアンヌ鈴木の部屋』など。神奈川近代文学館館長。